くらし
2019/02/06

山梨の歴史的産業、富士山麓のハタオリを全国へ

(写真=ハタオリマチのハタ印 運営事務局)
(写真=ハタオリマチのハタ印 運営事務局)
山梨では古くから織物業が盛んでした。山梨で作られた織物は「甲斐絹(かいき)」と呼ばれ、江戸っ子たちから人気を博していたそうです。そんな歴史ある山梨の織物に再び光が当たっています。それを担っているのは、今なおその技術を受け継ぐ若手の機屋(はたや)たちです。山梨が機織りとともに歩んできた歴史、現代に息づく技術、そして若手が未来に込めた願いとは。山梨の機織りの昔と今を見ていきましょう。

山梨の機織りの歴史

高級織物産地として栄えた、都留郡(つるぐん)一帯の郡内地域(吉田市、西桂町、都留市、大月市、上野原市)では、現在でも甲斐絹をルーツとした織物が生産されています。婦人服やインテリア用品、服の裏地やネクタイ生地などに利用され、今でも多くの人に愛されている織物です。

郡内地域の織物が歴史上に初めて登場したのは、千年以上昔の平安時代の法令集、延喜式(えんきしき)です。そこには「甲斐の国は布を納めるように」と記されています。その後、16世紀半ばからの南蛮貿易によって生糸が輸入されて絹が登場し、それをもとに甲斐絹が誕生したといわれています。

甲斐絹が人気を集め始めたのは江戸時代のことです。ぜいたくを禁止する奢侈(しゃし)禁止令により、決まった色と素材の衣服しか身につけられなくなってしまった江戸の人たちが目を付けたのが、「甲斐絹の裏地」でした。表から見れば奢侈禁止令に従った地味な羽織物ですが、裏返してみると、美しい色と上品な風合いの甲斐絹が使われていたのです。

甲斐絹が全盛期を迎えたのは、明治時代のことです。織機上の縦糸に型紙を当て、絵具と刷毛で絵を刷り込む独特な技法をはじめとして、さまざまな甲斐絹が生産されるようになりました。洋傘の地や和装地、服裏地、座布団地などに利用されていました。しかし昭和に入ると、太平洋戦争の影響で甲斐絹の生産量は激減してしまいます。

その後、戦後の需要で息を吹き返したものの、昭和の終わりごろになると今度は安い外国産の織物が出回るようになり、再び甲斐の織物職人・機屋にとって苦しい時代が続きました。

現代の機織り職人たち

この現状を打破すべく立ち上がったのが、富士吉田市の織物職人・機屋の子どもや孫たちでした。繊細で精密な甲斐の織物のよさを世に伝えるために、高級ブランドに甲斐の織物を提供したり、自身で甲斐織物のブランドを立ち上げたりと、積極的な活動を始めたのです。

2012年には、機屋が「ヤマナシハタオリトラベル」という名で実際に店頭に立ち、山梨のテキスタイル製品を一般に広く伝えるといった活動も行いました。それをきっかけとして、百貨店や商業施設からのオファーが入るようになり、山梨の「ハタオリ」はじわじわと人気を集めていきました。

ヤマナシハタオリトラベルは、ファクトリーブランドを営む12の工場が運営に携わっています。山梨の機屋たちが手を取り合い、協力し合いながら山梨のハタオリを全国に向けてアピールしているのです。機屋とデザイナーなどをつなぐビジネスマッチングツアーや、多くの職人と出会えるハタオリマチフェスティバルを行い、着実にファンを増やしています。

誰かが続けていかなければ、消えてしまう伝統の灯。機屋たちはそれを大切に守り受け継ぎ、多くの人にその存在を伝える活動を行っています。山梨のハタオリは世代から世代へと、これからも受け継がれていくことでしょう。

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