経済
2018/11/07

イギリス人も驚いた?明治・東北の産業復興の基盤・万世大路と栗子隧道

(写真=PIXTA)
(写真=PIXTA)
日本は全国的に交通網が整備されており、車だけでなく新幹線や飛行機を利用すれば、日本中どこにでも簡単に移動することができます。しかし、120年ほど前の明治時代には、道路が整備されていなかったため、隣の県に行くのも一苦労でした。

そのような時代に、福島県福島市と山形県米沢市を結ぶ、約48キロメートルの国道「万世大路」(ばんせいたいろ)が開設されています。今回は、明治時代に開通した国道・万世大路と、万世大路とともに作られた「栗子隧道」(くりこずいどう)の誕生秘話をご紹介します。

当時の最先端・山形、外国人も驚く街の力

万世大路に触れる前に、この道路が建設された当時の山形の様子について見ていきましょう。イギリス人旅行作家イザベラ・バードが、1878年に東北を訪れた時の様子を「日本奥地紀行」という本にまとめています。その本では、山形のことを「東洋のアルカディア(理想郷)」と表現しています。

美しい自然はもちろんのこと、大きな病院があり整備された街並みにも感銘を受けたのでしょう。明治時代の山形はとても発展していたことがうかがえます。

万世大路ができたきっかけと歴史とは?

山形が本にまで登場するほどの発展を遂げるまでには、とある人物の存在がありました。それが当時の山形県令(県知事)・三島通庸(みちつね)です。

明治時代以前、福島と米沢の間を行き交うには、板谷峠を通る必要がありました。しかし板谷峠は険しく、冬の積雪時はもちろん夏でも峠越えは難渋し、便利とは言い難い道だったのです。そこで1876年、三島通庸は県の経済発展のために交通整備の大切さを訴え、新道の建設を発案します。山形から福島、そしてその先の東京までも往来しやすくなれば、東北に物資が滞りなく届き、発展していくと考えたのです。

福島県側に中野新道、山形県側に刈安新道が建設され、その一環として隧道(トンネル)も建設されます。トンネルの中の一つ、標高1,217メートルの栗子山の山腹にできた全長約864メートルの栗子隧道は1881年の完成当時、日本最長を誇ったそうです。

この栗子隧道は当時の日本の技術では工事が難しかったため、欧米の技術を取り入れながら作られたという記録があります。穴を掘るためにアメリカから最先端の穿孔機(せんこうき)を導入し、オランダ人技術者を招へいするなど、最新鋭の技術で行われた工事は、死亡災害の発生もなく終了することができました。

明治天皇が命名!遺産にもなっている万世大路

万世大路は、栗子隧道および新道の開通式に参加した明治天皇により命名され、その名には「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ(長く人々の役に立つように)」という願いが込められたそうです。そして県令・三島通庸の考え通り、万世大路の開通で沿道の宿場や運輸関連の会社も繁栄しました。

万世大路は歴史的にも貴重な遺産となっており、1996年には各地域の文化財への関心を深めるために文化庁が選定した「歴史の道百選」の一つに選ばれています。また歴史的土木構造物の保存を目的とした土木学会の「土木遺産」にも選定されました。

明治から大正・昭和へ……変わりゆく万世大路

明治時代当時、万世大路は人力車や馬車の往来を目的とした道路でしたが、時代が進むにつれて人々の移動手段が変化していきます。1899年には山形と福島を結ぶ鉄道が開通し、移動時間が短縮されました。そして大正時代になると東北地方でも自動車が普及し始めます。交通網の近代化により万世大路の交通量は減り、役割は徐々に小さくなっていったのです。

その後、万世大路を自動車対応の道路にするため、国の事業として1933年に改修工事が始まります。素掘りだったトンネルにコンクリートを打ち込み、橋梁も木橋からコンクリート橋、鉄橋に変えて幅員も広げました。この工事は1937年まで行われます。

新しい万世大路は、自動車の通行が可能になったものの、積雪により数ヵ月にも渡る道路閉鎖などがあり、万全な運行ができているとはいえませんでした。そこで1961年から再度改修工事が始まり、1966年には栗子ハイウェイが完成。明治時代にできた万世大路は廃道となりました。

>>(次ページ)万世大路から栗子ハイウェイ、そして東北中央自動車道へ
 
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